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第265回 例会2020年9月16日(水)0:00〜2020年9月22日(火)23:59 開催

開 会

点 鐘

ロータリーソング

四つのテスト

会長の時間

2020-21年度会長 大塚 和光

 皆様、おはようございます、こんにちは、こんばんは。どれか当てはまるもので。

 9月6日の天声人語に保健所のことが取り上げられていました。日本にも保健所が戦前からあったそうです。しかし、記事によれば米占領軍の公衆衛生部門の長であったクロフォード・サムス大佐の目には診療所程度でしかなかったようです。敗戦直後の当時の日本は蚊が多く街には浮浪児だらけ、天然痘などの感染症が蔓延していた、と。そこで、東京・杉並に初のモデル保健所が開設されました。個々の患者の診察ではなく、地域の公衆衛生を担う役所としての位置づけがなされたのです。各地に同様の施設が増やされました。しかし、大佐が帰国するとたちまち人員も予算も削られ「保健所たそがれ論」がしきりに言われたそうです。それでも戦後の保健所は結核を減らし、乳児の死亡率を下げるなどの結果を生みました。
 私は随分昔コンビニの店長をしたことがあります。その時、飲食関係の許可を得るための資格研修を保健所で受けました。サルモネラ菌とかボツリヌス菌とか覚えたものです。当時、私は40才代でしたが、かなり年配の方まで飲食業の開業に必要な資格を取りに来ていました。その後、知り合った居酒屋や寿司屋に出向いたのは良い思い出です。
 1994年の法改正を転機に検診や相談が市町村に移管され、保健所の統廃合が進みました。現在は全国でも469か所で法改正前のほぼ半分となっています。今回の新型コロナの対応で再び保健所の業務が注目されました。入院先を探す、濃厚接触者を特定するといった事が爆発的に増え、人手不足どころか激務のため都市部の職員の中には休職を余儀なくされた人も出たようです。退職者や他の部署からの応援で何とか持ちこたえている、といいます。医療現場ということで病院や各種の介護施設などが注目されています。保健所も最前線の一つですね。
  
 制度を変えることの難しさを思います。保健所もそうですが、自治会の場合も法改正が転換点だったといえます。戦前の隣組の運用の反省からでしょうが、やはり大方の業務が地方自治体に移管されました。今や組織率が50%を超えるところは珍しいのでは。自治会は葬儀の通知と寄付金集めのための組織みたいに思われています。住民意識の変化を言われますが、これでは昔からの義理と付き合い以外は加入しようという気にもならなくても無理からぬ気がします。

 月信9月号で久保田さんが「基本的教育と識字率向上」について非常に判り易く書いておられます。セブ島の少年の事例から世界中には満足に勉強が出来る環境にない子供がまだまだ大勢いることに触れています。ご自分の少年時代がいかに恵まれたものだったかに思いを致し、勉強することが両親を助ける、という発想すらなかった、と振り返っています。
 学校に行くこと、学ぶこと、教育を受けることは全ての子供に与えられるべき権利であり、「誤解され易いのですが、」とした上で「義務教育」は教育を受ける権利ではなく、教育の機会を与える義務であり、子供に課せられた義務ではなく大人が果たすべき課題であることにも触れます。この大いなる誤解はまだまだ一般的なものだと思いますね。
 久保田さんは続けて、「だからこそ、教育の場は学校だけではない。」とします。周囲の全ての大人から子供に向けられた善意と愛情によって「いいこと」「わるいこと」を素直に記憶出来るのではないか、と。昔、会津藩の子弟が「ならぬものは、ならぬものです。」と教えられたのは有名です。「今の私たちはちゃんと教育の義務を果たしているのか。」という問いかけは重いものがあります。
 世界を見渡して、教育、学習の機会を与えられない子供や大人を無くそうという主題に取り組む時に、何故教育を受ける事が困難な人がいるのか、また、何故「基本的教育」を受ける事が必要なのか、については久保田さんの問いかけを待つまでもなく貧困問題や紛争に行き着きます。一方に、というか権力者の側に都合の良い状態でもある場合が多いのです。まして敵対勢力同士となれば互いの勢力を削ぐために無知、貧困を強めようとするでしょう。日本にも大昔には「知らしむべからず、寄らしむべし。」という思想がありました。「お上」に任せる、頼る、という体質は残っていますよね。何でも「市役所に言え。」とか「国はどうしてくれるんだ」とかいう言い方は日常的に耳にしませんか。

 インターアクターにアラビア文字のボトルで試した実験は面白いですね。文字が読めない不安が直截に体験できたことでしょう。識字が自分の命や健康を守る必要かつ重要な技能であることの理解はこうした体験をしないと出来ないことです。現代の日本の人々に識字の大切さを理解していただくにはとても良い方法だと思います。今までアイマスクや耳栓をしたり体に重りをつけたりして視力や聴力、あるいは身体の不自由さを体験することはありましたが。外国語についても同じようなことが言えるかもしれません。知らない、わからない、ということが不安を招く、という経験をしたことがある人は随分多いはずですね。

幹事報告

2020-21年度幹事 石田 裕樹

◆ガバナー補佐訪問◆
 本例会開催期間中に移動例会でガバナー補佐訪問が開催されます。
 出席される会員は、会場準備のため点鐘30分前、遅くとも17時にはご集合下さい。ご協力お願い致します。

 ◇ガバナー補佐訪問
  日程:2020年9月19日(土) 17:30 点鐘
                 17:30 ~ 17:30 例会(ガバナー補佐訪問)
                 18:30 ~ 18:30 懇談会
  会場:第一相澤ビル 8F会議室
  ※お弁当を用意する予定ですので、欠席される方は9月15日(火)までに事務局にご連絡ください。
 
 

◆米山記念奨学会より委嘱状受領◆
 当クラブで初めて世話クラブを引き受けるにあたり、クラブ及びカウンセラーに対して委嘱状が届きました。
 【委嘱状(クラブ)
 【委嘱状(カウンセラー)
 
 なお、学生本人につきましては、現在コロナ感染症対策による入国制限のため入国が遅れており、対応については米山奨学会本部と連絡を取り合っておりますので、ご紹介できるタイミングで例会内においてさせていただく予定です。

 

◆第7回 日台ロータリー親善会議福岡大会開催中止◆
 日程を変更し2021年3月開催を目指して検討が進められてきた標記大会ですが、コロナウィルス感染者状況や渡航制限等現段階では今後の状況改善の展望が不透明な現状を踏まえ、中止となった旨実行委員会より報告がありました。

 

◆ハイライトよねやま246号◆ 2020年9月14日発行
 ▼全文は、こちらよりご覧ください。
  http://www.rotary-yoneyama.or.jp/summary/pdf/highlight246_pdf.pdf

委員会報告

出席委員会

第264回例会 出席率100%
会員数4名 出席者4名 欠席者0名

Make Up

第264回例会のビジターコメント

川崎ロータリークラブ 元沢 伸夫 様


ラダック成人女性識字プロジェクトについて学ばせていただきました。まず最初にこういったプロジェクトが存在することそのものに驚きを感じました。日本では考えられないことが世界では起こりうるのだと知りました。個人的に一番心に響いたことは、MIMCのモットー「Compassion in Action」「慈悲を行動に」でした。実際に行動につなげることの大切さを痛感しました。

Smile Box

第264回例会のスマイル報告

前回はありませんでした。

カレンダー

卓 話

きものがたり歳時記(四)

卓話者:十一代目大塚重郎右衛門 様

 

 昔から暑さ寒さも彼岸までとは言いますが、まだまだ暑い日が続きそうですね。まあ、何を着ても暑い時は暑い。
となると、究極のところは何も着ない、はだか、ですか。

 
  夏、家の中で、男は裸でくつろぐことがある。裸子・裸身
   道問へば路地に裸子充満す        楸邨
   ともに裸身ともに浪聴き父子なる     林火

 いやいや、これでは着物屋は商売あがったりですな。とにかく、やはり形だけでも何か着ていてもらわないと。

 肌脱
  夏、肌脱ぎとなってくつろぐこと。片肌脱・諸肌脱
   肌脱や萎み給へる母の乳        枯山楼
   夏痩の貧しき肌をぬぎにけり       草城

 草城は病人だったのですから仕方がないとはいえ、この例句は少しもお洒落じゃないですね。ちょっとがっかり。
「夏布団ふわりとかかる骨の上」の方が綺麗で哀しい。
 九月と六月は季節の変わり目。この時期に着る着物は普通は裏地をつけません。透けない生地を裏地を付けないで仕立てた着物、つまり単衣を着る時期です。この時期の単衣の着物はどれも袷の着物に比べやや張りが強くシャリ感があります。これは裏地が付いていないために直接肌に触れることが多いので、少々汗ばんでも肌離れが良く快適に装うためです。そして撫子、女郎花、桔梗、萩など季節の花が美しく描かれた柄が多いのです。折角ですから、この時期のお洒落、着心地を楽しみたいですよね。
 さて、昔は日本人の九割以上は農民でした。彼らは普通、一年中浴衣の厚手のような生地で単衣です。今でもそうですが誰もが器用にお針が出来る技術と時間があるわけじゃありません。単衣なら仕立てが簡単なのです。どうして寒いと袷になったかというと、綿入れは綿を挟むために袷に仕立てる必要があったからなのです。
 平安時代の貴族女性がどうして十二単だったかは当時の日本は綿が実用化できる状況ではなかったから、という事は前に書きました。その後、時代を経て貧乏人の単衣重ねという言葉が出来上がります。貧乏人は寒くても単衣を重ねて着ていて袷を着ない、ということですよ。浮世絵は殆ど袷で描いてありますね。夏の風景は別ですが。あれは、当時の最新ファッションで裏地のコーディネイトが売りなのです。それと、それだけ手間ひまかけられる生活をしている、出来る、長着を引きずって擦り切れても手入れ出来る生活をしているという贅沢のアピールだからなのです。だからこそ貧乏人の単衣重ね、という言葉になるのです。
 町人でも武士でも一部の裕福な人以外はそれほど着物を持っていません。貴族でも江戸時代にはかなり困窮している人が多かった筈ですし、町人は木綿が主なので裏を付けない人も「着たきり雀」の人も沢山いたことでしょう。当時の川柳に「泣きながら眼を配る形見分け」というのがあります。着物が貴重品だったことが良くわかる一句ですね。
 明治以降にウールが入ってきてセルという名前で単衣として普及しました。羊ですから、それ以前は日本にはない素材です。木綿より高級な単衣素材とされ、貧乏人用ではないもの、つまり袷に匹敵するものとして歓迎されました。しかし、当時の物はちくちくして着心地が良くはなかったようです。現在でもウールや厚手木綿は単衣に仕立てて冬にも着ます。これは真冬でも裏を付けなくても良いのだそうです。絹とちがって裏をつけると重くてとても着づらいものになりますからね。
 なによりも袷より単衣のほうが管理は簡単なのです。袷の洗濯と単衣の洗濯は違います。単衣はそのまま洗って糊付けする、今の浴衣と同じような手入れで済みます。絹物のような和服は普通は洗い張りをします。今はクリーニング技術の進歩で袷でも丸洗いができますが、素材は同じでも裏と表とは違う布地なので限度はあります。綿は自宅で洗濯することが可能ですが、少々地詰めをしていても縮みます。それに着物と背伏や居敷当ての縮み具合が違ってしまうと着物が背伏分からつってしまう可能性があります。だから解いて洗う、そして仕立て直すというのが原則です。
 今の着物の衣替えルールは明治時代につくられたものだそうです。「四月一日」と書いて「わたぬき」と読んだりしたのですから、ある程度は普及していたのでしょうが。旧暦の場合うるう月があったりするのですから「何月」というのは今ほど明確ではなかったはずです。それに、最近の気候ですと単衣の期間がとても伸びていると感じます。九月の残暑の頃はまだ薄ものを着ますし、十月でも袷は着ていられないこともあります。なので厚手のもの、薄手のもの、と単衣を充実させると便利だと思いますよ。
 洋服でもそうですが衣服というのは見ている人の印象も大事だと思います。ですから真冬に薄物、真夏に袷にはしたくありません。自分の過ごしやすさと見る人の心地よさ、その兼ね合いがお洒落なのではないかと思います。
 

※引用文は山本健吉編【季寄せ】(昭和四十八年文藝春秋社刊)による。

 

※本稿は阿夫利嶺俳句会の月刊誌「阿夫利嶺」に掲載されております連載を編集して掲載しております。※

閉 会

点 鐘

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