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第274回 例会2020年11月18日(水)0:00〜2020年11月24日(火)23:59 開催

開 会

点 鐘

ロータリーソング

四つのテスト

会長の時間

2020-21年度会長 大塚 和光

 皆様、おはようございます、こんにちは、こんばんは。どれか当てはまるもので。

 G月信11月号のガバナーメッセージで久保田ガバナーがクナークRI会長のメッセージに触れて次のように述べています。そのメッセージは久保田さんの意訳によれば以下のようなものです。
 〇「新しいスタイルのクラブ」「デジタル社会で育った若い世代」の「彼らは奉仕や人との繋がりに強い関心があります。しかし彼らは我々を待ってはくれません。若い世代は、意味のある活動、人の役に立つことを思い立ったらすぐに実行したいと思っています。」

 これに対し、久保田ガバナーは、「この言葉を聞くと世間に限らず、ロータリーもそのような方向に動いているように実感します。が、この話で勘違いしないで頂きたいことがあります。」として次のように続けます。
 〇今の部分だけ抜き出すとRI会長は「新しい様式の方が良い」と言っているように感じるかもしれません。しかし、真意はそうではなく、今まで積み重ねてきたもの、基本的理念と中核的価値観に違うアプローチで挑もうとする世代を理解し共生しよう、と呼びかけているのです。これからもロータリーの基本理念や中核的価値観を維持し共有した活動をすることに替りはなく、ただ従来の私たちが想像しなかった独創的な発想を素早く行動する新しいスタイルを実践する人達が加わり、ロータリーの奉仕活動に奥行きや厚みが増すことが期待されるのです。

 そして、次のように展開します。
 〇ロータリーの在り方に正解も不正解もないのです。これまでのスタイルを変えないクラブもロータリアンも、新しいユニークなスタイルを創造するクラブもロータリアンも、同じ理想の下で、それぞれの特色を十分活かし地域社会や国際社会へ奉仕することが重要であり、お互いを認め得意苦手な部分を補い合い知識見識を広げることで自分自身もロータリークラブも成長することが私たちの目標とするところではないでしょうか。

 思うに、久保田ガバナーはG公式訪問などを通じて、いわゆる従来型のクラブの間では多くの会員の感覚として「新しい様式」に対する理解は左程進んでおらず抵抗感のようなものがあるのを感じ取られたのではないでしょうか。前年度まで、原さんと田代さんが会長の時、しばしば所謂Eクラブに対する無理解を言われていたことが想起されます。この点に今の時点でガバナーが月信で触れているということは現場の理解はそう簡単には進まないという事かと思います。久保田ガバナーは続けます。
 〇ただし、「しかし彼らは待ってはくれません。」この言葉の意味は少し違います。ここでいう「彼ら」とは「デジタル世代の若いロータリアン」を指しているのではなく。「世の中全体」のことです。このコロナ禍で急速に進んだ生活様式の変化に私たちロータリーも適応しなくてはならないことを示唆しています。だから、少し急いで新しい価値観を持ち込む必要があるように思います。当地区では前回のPETSから始まったオンラインでの研修の是非ではなく、これから何を学び、次世代の「どこ」で「何」を活かすべきなのか考える機会だと思います。

 こうした久保田さんの言い回しから何かが見える気がします。何にしても変化というものは当初受け入れがたいものです。彼が最後に触れている地区大会についての表現に「彼らの努力と勇気が斬新な地区大会のモデルを築き上げてくれました。この挑戦が、新しい時代の扉、入り口を開けたと、いつか誰かに言っていただければこの上なく嬉しく思います。」とあります。表題が「地区大会を終えて」ですから、もしかしたら、ですが、今回の地区大会については私の想像以上に批判を含め様々な意見があったのでしょうね。

 これからDVDが配られるのでしょうが、その全部を通して見る会員がどれ程いるのかとも思います。今回の地区大会は私にはとても合理的な運営だと思えました。確かに年に一度の「お祭り」的な要素は少なかったけれども式典としての部分は言わば必要にして十分だと思います。ついでながら月信の表彰式の写真、財団と米山のもの、田代さんが写っていますが2枚とも同じものに見えます。ご愛敬かな。撮影の時はかなり混乱というか混雑していましたね。
 コロナ禍がなくなった後には地区ロータリアン全体の「集い」としての部分が復活することでしょう。様々な制約があるにもせよ、長時間の退屈な式典と集団給食のような様子が良いとは思えません。それがために参加をためらう会員が多いのも事実です。地区大会の本質と在りようを問い直す良い機会だったと思います。

幹事報告

2020-21年度幹事 石田 裕樹

◆ハイライトよねやま248号◆ 2020年11月13日発行
 【http://www.rotary-yoneyama.or.jp/summary/pdf/highlight248_pdf.pdf

 

委員会報告

出席委員会

第273回例会 出席率100%
  会員数4名 出席者4名 欠席者0名

Make Up

第273回例会のビジターコメント

前回はありませんでした。

Smile Box

第273回例会のスマイル報告

前回はありませんでした。

カレンダー

卓 話

きものがたり歳時記(五)

卓話者:十一代目 大塚重郎右衛門 様

 
 桃吹く
  草棉(わた)は花の後、桃の形に似た萌果を付け、熟して裂け、白綿のある綿を出す。これを桃吹く、棉吹くと言
  う。棉摘・棉取打綿をする弓のような具を綿弓・綿打弓と言う。
   棉の実を摘みゐてうたふこともなし   楸邨
   山風に棉ふき出でてましろなれ     鴻村

 耳慣れない季語ですね。テレビのプレバトでお馴染みの夏井いつきさんの著作に『絶滅危急季語辞典』(ちくま文庫)というのがあります。宇多喜代子さんも『古季語と遊ぶ』「古い季語・珍しい季語の実作体験記」(角川選書)を出しておられますね。私の使っている【季寄せ】も昭和四十八年刊で四十五年ほど前のものですから、こういうのも載っています。「棉」と「綿」、分けて使っているようですが、さて、この二つはどう違うのでしょうか。
 どちらも天然の、つまり、化繊や合繊ではない「めん」です。摘み取った状態までのものが「棉」、種子を取り除いた後のものが「綿」ですが、区別しないことも多いです。
 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語です。だから「木綿」を「きわた」とは読みません。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼びますが、これはその本来の用法になります。古くは、化合繊も木綿綿もありませんでしたから、それらの中でも真綿(絹の原料・絹の綿)を意味することが多かったわけです。
 だから「木綿綿」は「もめんわた」ですよね。わかりにくいですが、しょうがないでしょう。ごめんね、です。「合繊綿」は「ごうせんわた」で「ごうせんめん」とは読まないでしょう。因みに、「絹綿」は「きぬわた」です。「けんめん」でも「きぬめん」でもありません。意味を考えればわかる事です。絹製の綿(めん)なんてないわけで。

 新綿(しんわた)
  今年とれた新しい草棉。蚕から採った新真綿にも言う。 新綿(にいわた)・今年綿。
   新綿や子の分のけてみんな売る     一茶
   新綿を見てゐて疲れ濃くなりぬ     楸邨

 綿花は十一月〜十二月の晴れた日に収穫します。一本の木から両手一杯分くらいの綿がとれます。クッションなど大物を作るのはなかなか大変。ちなみに大人の肌着一枚分には、六十個くらいの綿花が必要なのだそうです。
 日本の綿栽培は平安時代、三河国に漂着したインド系の青年が種子を持ち込んだのが始まりといわれます。栽培するも、一年で失敗。その後何度も種子の導入・栽培を試みたようですが成功した事例の記録はみられず、熱帯の植物を温帯の日本に定着させるには時間と工夫が必要だったことがうかがえます。
 古代や中世でいう「綿」は、絹でできた真綿を指します。朝鮮から輸入されていたものは輸入文綿(もんめん)と呼ばれ、十五世紀室町時代には安置した宝剣や鎧の四方を囲う幕に用いられるような珍重すべき布でした。十六世紀以降に栽培が定着し、長崎・出島の記録によれば輸入は止まり国産綿が急速に全国に普及します。TVの大河ドラマで「直虎」が栽培を勧めるところがありますね。更に分業化が進み寒冷地でも栽培はできなくても優れた綿織物の産地にはなれたのです。明治になると手紡ぎで高価な日本在来綿は廃れ、現在はほぼ百%輸入されています。
 地球が「第四氷河期」に入ったとされる後期旧石器時代、人類は食べるために狩った獣類の毛皮を身にまとい、寒さを防ぐことを始めたといいます。繊維が登場するのは今から一万数千年前の新石器時代になってから。当時の住居跡からは麻の糸・綱・布などが発見されています。天然の繊維を長く繋ぎ合わせて糸をつくり、縦横に組み合わせて綱や布を編んだり織ったりしていたのですね。
 綿栽培はペルーやインドではそれぞれ紀元前二千六百年頃すでに行われていたのに、中国・朝鮮・日本などではかなり遅れて十世紀以降とされます。年代については諸説ありますが、はっきりしているのは綿の普及が日本の庶民の生活を劇的に変えたという事実です。それ以前、富貴な人は軽くて温かい絹の服を着ることができましたが、庶民は麻織物や紙布でした。真冬でも素肌に麻や樹皮で作った服を着るしかありませんでした。万葉集の山上憶良の「貧窮問答歌」には、袖のない麻の服をありったけ身につけ、藁をぱらぱら敷いた土の上に直に寝る様子が歌われています。寒さで病気になり亡くなる人が多かったはずです。
 温かくて丈夫で肌触りが良く、洗うほどになじむ木綿の衣服がどれほど人々を癒し、心にやすらぎを与えたことでしょう。さらに木綿の着物は、人々の外見、シルエットをすっきりと変え、美しい色や模様の楽しみをくれました。生活の味わいが知らず知らずの間にこまやかになり風流の間口が、ぐっと広がったのです。この「衣料革命」がもし起こらなかったら、浮世絵に描かれる人の姿も日本人の暮らし方も今とまったく違っていたかもしれませんね。

※引用文は山本健吉編【季寄せ】(昭和四十八年文藝春秋社刊)による。

 

※本稿は阿夫利嶺俳句会の月刊誌「阿夫利嶺」に掲載されている連載を編集して掲載しております。※

閉 会

点 鐘

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