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第278回 例会2020年12月16日(水)0:00〜2020年12月22日(火)23:59 開催

開 会

点 鐘

ロータリーソング

四つのテスト

会長の時間

2020-21年度会長 大塚 和光

 皆様、おはようございます、こんにちは、こんばんは。どれか当てはまるもので。

 12月9日19時53分現在の新型コロナによる死者数はジョンズ・ホプキンス大学を情報源としたCNNによれば、全世界で1,557,343人、日本は2,420人、米国は286,189人とされています。情報源や集計方法等により多少のばらつきはあるものの恐ろしい数字です。

 米国では2020年5月1日にCovid-19による死者数がベトナム戦争での死者数を上回っています。そのほか、過去の戦争での死者数と比較してみると、新型コロナの恐ろしさが見えてきます。まさに「戦い」です。
 米国について戦死者数を調べてみますと、1775~83年の独立戦争では4,435名の戦死者、1812~15年の米英戦争が2,260名、1846~48年の米墨戦争が13,283名、1861~65年の南北戦争は498,332名、1898~1902年の米西戦争が2446名、1917~1918年の第一次大戦は53,402名、1941~45年の第二次世界大戦は291,557名、1950~53年の朝鮮戦争が36,574名、1964~75年のベトナム戦争が58,220名、2001年の9.11同時多発テロ事件が2,977名、2001年からのアフガニスタン紛争は2,445名、2003~2010年のイラク戦争が4431名、という具合に続きます。すでに南北戦争、第二次世界大戦に次ぐ犠牲者数です。

 我が国、日本は1945年の敗戦以来75年間というもの国家としての戦争はしていません。しかし、明治の開国以後、日清、日露、第一次大戦、支那事変から太平洋戦争に至るまでには相当の戦死者を出しています。 資料によって戦没者の総数はばらつきがあります。
 総務庁「日本長期統計総覧」によれば戦争別死傷者数は以下の通りです。
         死没者     負傷者
 日清戦争    13,825     13,448
 日露戦争    85,082     84,435
 日中戦争    511,453     185,647  (昭和12~16年)
 太平洋戦争  1,864,710  1,435,676  (昭和17~23年)

 ここから先は不確かな部分も多いこともありますし、こうした数字に興味がない方は読み飛ばしてよろしいかと思います。私としては、調べているうちに様々なことが見えてきたような気もしています。 

 「國史大辭典 11」(吉川弘文館 1990年)によると日本軍の損害は日清戦争が13,309人 うち病死11,894人で日露戦争が約84,000人。「日本の戦争 図解とデータ」(桑田悦 原書房 1982年)には日清戦争が戦死1,417人、病死11,894人と変死177人、そして、日露戦争は約118,000人(服役免除含む)とあります。日清戦争について防衛ハンドブック(朝雲新聞社)によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)。また、陸軍省医務局編「明治二十七八年役陸軍衛生事蹟」によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて軍夫を含む陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であったとされます。
 流行して、しばしば議論の的になった脚気については患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人)とされます。当時、衛生状態が悪いこともあり戦地で伝染病がはやりました。とりわけ台湾では暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリアで陣没し、近衛第二旅団長山根信成陸軍少将も戦病死したほどでした。ただし、広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王陸軍大将が腸チフスを発症したなど、国内も安全ではなかったのです。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) がコレラによるものでした(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)。次いで消化器疾患1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、赤痢1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、マラリア542人 (4.1%)、凍傷88人 (0.7%)とあります。
 最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行しました。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり、その後、似島(広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底されたのです。なお、日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ1895年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回ったのです。

 日露戦争についてはロシア側の戦力は約50万人で日本軍は約30万人であったとされますが、日本軍の損害は戦没8万8,429人で、うち戦死戦傷死は 5万5,655人でした。病死2万7,192人、負傷者15万3,584人、捕虜1,800人ともあります。別の資料、靖国神社資料の靖国神社戦争別合祀者数によると戦没8万1210人、うち戦死戦傷死は 5万2,623人、病死2万人、負傷14万6,032人、捕虜7万9,000人とあります。日本長期統計総覧「日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失」によれば、死没8万4,435人、戦死戦病死は55,655人です。

 太平洋戦争に関して日本政府は1963(昭和38年)5月14日の閣議決定「戦没者追悼式の実施に関する件」において「戦没者」について「支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)」であると決定し、戦没者の数を約310万人としています。一方、厚生労働省は戦没者の概数を240万としています。個々の戦争の捉え方によって期間や名称も微妙に異なっています。また関東軍はソ連軍に降伏し60万人がシベリアなどに抑留され6万人が犠牲になりました。

幹事報告

2020-21年度幹事 石田 裕樹

◆COVID-19(新型コロナウイルス)に関する地区及びクラブ運営ガイドライン◆
 地区から通知がありました。詳細は下記よりご確認ください。
 【COVID-19地区ガイドライン(1213)

 

◆ハイライトよねやま249号◆ 2020年12月14日発行
 下記よりご覧ください。
  http://www.rotary-yoneyama.or.jp/summary/pdf/highlight249_pdf.pdf

委員会報告

出席委員会

第277回例会 出席率75%
  会員数4名 出席者3名 欠席者1名

奉仕プロジェクト委員会

◆アーカス湘南RC お米プロジェクト~ご飯を食べてポリオ根絶!~◆
 前回例会会期中の申し込みは24件69,000円でした。お米のストックはまだありますので、身の回りの方たちへのご案内お願いします。
 
 案内用資料はこちら
 【アーカス湘南ロータリークラブお米プロジェクト案内
 【アーカス湘南RCお米プロジェクト申込書

Make Up

第277回例会のビジターコメント

川崎ロータリークラブ 元沢 伸夫 様


卓話を拝見し、ストレス→歯周病→全身疾患という連鎖に驚きと恐怖を感じました。私自身、特に会社の代表となってからのこの3年間、日々過度なストレスを実感して生活してきました。このような卓話をきっかけに、生活改善していく必要性を痛感した次第です。ありがとうございました。

Smile Box

第277回例会のスマイル報告

前回はありませんでした。

カレンダー

卓 話

きものがたり歳時記(七)

卓話者:十一代目 大塚重郎右衛門 様

 
 寒くなると様々な防寒具を用います。和装品で冬の季語に頭の方から順に頭巾・綿帽子・頬被・耳袋・ショール・襟巻・角巻・手袋・足袋といったものがあります。防寒に限らず、お洒落として春や秋にも使われるものもありますが、その場合は春ショールのように使われます。足袋にも晒裏の夏足袋もネル裏の冬物もあります。洋装の靴と同じく意外と目につくものです。

 足袋
  元来は冬でも素足のままでいたのを、木綿の普及によって流行した。革足袋・地下足袋・跣足足袋は仕事用。
 礼式用には白足袋を用いる。防寒具として用いる場合に、季語となる。
   遠き記憶甘く愛しく足袋に紐      風生
   足袋ぬいでそろへて明日をたのみとす  綾子

 足袋の起源については諸説あり、そのひとつに五世紀頃、応神天皇の時代に中国から日本へ伝わったとされる「襪」(しとうず)という履き物が発展したという説があります。襪は指股がなく現在の半長靴または靴下のような形で、履いた後に足首のところを紐で結ぶというものでした。平安時代以前の貴族は草履を履く習慣がなく現代のスリップ・オン・シューズのような「浅沓」(あさぐつ)やブーツ状の「かの沓」(かのくつ)が着用されていた為、その下に履く靴下のような役割として用いられました。よって襪とは「下沓」(したぐつ)が訛ったものとされています。
 平安時代に入ってからも、礼服には錦、朝服には白を着用することとされ、階級によって綾絹、練絹、麻などが使い分けられていたようです。特殊なものとして皮革製があり、主に蹴鞠や舞楽の際に着用されました。また、同じく平安時代に山家(やまが)と呼ばれた猟師たちが山野で足を保護するため、猿・熊・鹿などの毛皮を履物にし、指先に股をつけた「毛足袋」を履いており、それが後世の足袋の原型となったとする説もあります。
 平安中期には股割れ紐付きの足袋に変わり、明治の初め頃、現在のコハゼ付きの足袋が出来ました。このように足袋は何百年という歴史の中で日本人の足に無くてはならない存在として進化し続けてきました。いずれにしても文字どうり「足」に履く「袋」だったわけです。
 襪を履いていた公家に対し、武家が主に着用したのが単皮(たんび)です。平安時代の「倭名抄」には、「町人は鹿皮を以て半靴(はんか)を為(つく)る。名付けて単皮と日う」という記述が残っています。単(ひとえ)の皮を使った、今でいう靴のようなもので、その「たんび」が後に「たび」に変化したというのです。鎌倉時代の「宇治拾遺物語」に「猿の皮の足袋はきなして」という記述があることから十一世紀には「足袋」の字が使われていたことがわかっています。但し、この頃に用いられた足袋(たび)は、まだ指の股が分れておらず、今のように親指が分れた形状となったのは室町時代になってからと言われています。
 他の説としては足袋の形を鼻に見立て、両足揃うと四つの鼻に見えるために「多鼻」となったという説、旅に出る際に足を痛めないよう鹿皮でできた袋で足を包んで出かけ、この旅沓(たびぐつ)を略して「たび」から「足袋」へと変化したという説もあります。
 室町時代以降、草履の普及とともに、武士の間で皮革製の足袋が普及しました。文禄(一五九二~一五九六年)の頃には、男性は白の革足袋や小桜などの模様を染めた小紋足袋、女性は紫色に染めた紫足袋を履く習慣が生まれました。とはいえ、履く時期は九月から翌年の二月までなど細かく規定され、さらに老中や城主の許可が必要でした。
 また当時の武家の間では人前で足袋を履くことは無礼とされており、礼装や主君の前では素足でいることが礼儀とされていました。一方で戦乱の世となるにつれ、革足袋が軍装として使用されるようになりました。
 江戸時代に入ってからも革足袋が一般的でした。しかし、一六五七年に起こった「明暦の大火」の後、防火用として庶民がこぞって革の羽織などを買い求め、皮革の値段が高騰しました。そこで、足袋に廉価な木綿を使ったところ、肌触りがよく履き心地がよいと評判になり急速に普及していきました。
 ところで、この今から三百六十年前、明暦三年に江戸で起きた大火事が由来とされる一関市・大東大原水掛祭りをご存知でしょうか。これは岩手県一関市で毎年建国記念の日に行われ、身も凍るような真冬に街道を駆け抜ける裸の男達に水を浴びせるという「天下の奇祭」ともいわれるお祭りです。死者十万人にも上ったこの大火事の原因は寺で遺品の着物を燃やした時の火が火種とされ、別名「振袖火事」と呼ばれます。火事が起きた旧暦の一月十八日を厄日と定め、火防祈願や火防宣伝、そして厄除を目的に行われていましたが、昭和四十八年より祭日を二月十一日と定めました。近年では無病息災や家内安全を祈って来る方も多いようです。私は平成十年以来、十五回参加しています。白の十二枚こはぜの地下足袋を履いて走ります。走った後の達成感、爽快感は素晴らしいですよ。

※引用文は山本健吉編【季寄せ】(昭和四十八年文藝春秋社刊)による。

 

※本稿は阿夫利嶺俳句会の月刊誌「阿夫利嶺」に掲載されている連載を編集して掲載しております。※

閉 会

点 鐘

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