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第287回 例会2021年2月24日(水)0:00〜2021年3月2日(火)23:59 開催

開 会

点 鐘

ロータリーソング

四つのテスト

会長の時間

2020-21年度会長 大塚 和光

 皆様、おはようございます、こんにちは、こんばんは。どれか当てはまるもので。

 「友」2月号縦組みの18頁に「ロータリーの将来について」という表題で佐世保RCの福田金治さんが寄稿しています。私も随分以前から同じ思いを感じることが多いこともあり、何度か、何人かのロータリアンと同じテーマで話したこともありました。そこで、今回も引用しながら考えてみます。
 福田さんは、現在のRIの活動が世界平和と人類の健康のために非常に貢献していることは間違いありません、としながらも、「半面、私がロータリーと最初に関わりを持った50年前と比べると、現状のRIの活動は、全く別の組織のように感じています。」と続けます。
 私は当初の入会は1986年ですから今年で36年目、福田さんは更に15年ほど先輩です。大先輩ですね。彼は、ロータリーでの経験は「人生道場ではないか」と思っているそうです。私も振り返ってみてつくづくそう思います。ロータリーに入会すると「ロータリアンとの交流」「ロータリー活動への参加」「セミナー・研修会での勉強」などを通じて経験を積みます。これが人間として成長するための源だと思います。JC、青年会議所とは一味違う、もう一段「大人の心得」を身に着ける訓練だったかと思います。
 後段の、現在行われているRI主催のロータリー研究会やセミナー、協議会のほとんどは「ロータリー財団への寄付の増額」「会員増強」「ロータリー活動の外部への周知」というようなRIの組織の強化対策が多い、との指摘は頷けます。「私たちロータリアンがどのようにしたら人間として成長できるか」という研修にはあまり時間がとられていない、という指摘も当たっていると思います。「価値観の多様化」が言われて久しいこともあり、そうしたテーマでの研修が持ちにくいのかもしれない、と思います。そこで福田さんは、このままではロータリーは寄付でしか社会に貢献できない組織になるのではと危惧しているといいます。
 2月12日付ハイライトよねやま251号に「上海で米山学友会総会を開催 」 という記事がありました。その中に、上海RCの山根基宏会員が紹介されていました。彼は長年同学友会を見守ってきた方で当日ゲストとして参加されたそうです。そこで「ロータリーとは“何か行動を起こしたい人たちのためのプラットフォーム”だと感じている。米山学友の皆さんは国内の子どもの教育支援をしている。寄付を募れば、たった半日で目標金額に到達する。活動にアイデアがあり学び合いの場もある。これはまさにロータリー精神の実践そのもの」と語りました、とあります。海外にこうした日本人ロータリアンがおられるのを知るのは嬉しいことですし、こうしたロータリアンが存在する限り福田さんの心配は杞憂と言えるかもしれません。
 私は世界的にロータリアンの数が減少に転じた頃から特に福田さんが言われるような変化が顕著になったと思っています。ロータリーがこの世に誕生した原点に返り、ロータリアン一人一人が自分の職業を通じて、少しずつで良いので周りの人に良い影響を与えられるような活動に力を注ぐべきだという福田さんの意見に基本的には賛成です。職業奉仕に関して日本のロータリーの特殊性のようなことも言われますが、元来「良き職業人」の集まりなのです。自分の会社、団体、地域において共同して実践し、しかもリーダーシップを取っていくような、いけるような人間的資質を身に着ける努力を続けてゆくことに重きをおきたいと思います。「みんなと一緒に」というのは大切なことです。ロータリアンは、そうした時にリーダーとなり「みんな」という組織を作り活動を広げてゆく人材たるべく努力を続ける人であるべきと思います。
 私がまだ40代だった頃の話ですが、街頭募金をやろうという相談の時に今の私より若い60ちょっと過ぎの社長たちが「忙しいし、面倒くさい。金は出すから勘弁してくれ。」と言っていたのを思い出します。ロータリーの奉仕活動を考える時にいつも思い出します。

幹事報告

2020-21年度幹事 石田 裕樹

◆定例理事会兼米山奨学金支給懇談会◆
 3月も緊急事態宣言が解除される見通しがつきませんので、3月6日(土)18:00もLINE(ビデオ通話)での会合になる見込みです。

委員会報告

出席委員会

第286回例会 出席率75%
 会員数4名 出席者3名 欠席者1名

奉仕プロジェクト委員会

◆アーカス湘南RC お米プロジェクト~ご飯を食べてポリオ根絶!~◆

 前回例会会期中の申し込みは0件でした。緊急事態宣言下で各種会合などの中止や延期が続き、なかなか宣伝も難しいとは思いますが、お米のストックはまだあります。引き続き身の回りの方たちへのご案内お願いします。

 
 案内用資料はこちら
 【アーカス湘南ロータリークラブお米プロジェクト案内
 【アーカス湘南RCお米プロジェクト申込書

Make Up

第286回例会のビジターコメント

前回はありませんでした。

Smile Box

第286回例会のスマイル報告

前回はありませんでした。

カレンダー

卓 話

きものがたり歳時記(九)

卓話者:十一代目 大塚重郎右衛門 様

 
 春着で有名な句に日野草城の『誰が妻とならむとすらむ春着の子』があります。可愛らしい無邪気な、春着を着た子。この子もいずれは誰かの妻になるのだとの思いが伝わってきます。モデルは昭和七年生まれの長女・温子(はるこ・現「暁」代表・室生幸太郎夫人)かもしれないといわれています。
 昨今は結婚しない男女が増えて、社会問題にもなっていますが、当時は結婚するのが常識でした。父親としては娘が子供の内から嫁に行く時のことが思われたのでしょう。私は娘二人ですので義理とはいえ息子が二人増えました。昨年十月二日には次女が男児を出産し、遂に、というか漸くお祖父ちゃんになりました。目出度し、目出度し。💛 
 ところで、私の俳句の師は山本つぼみ先生ですが、その師は八幡城太郎、さらにその師がこの日野草城ですね。伊丹三樹彦も草城の門下ですから、つぼみ先生は同期ということですか。更に遡れば高浜虚子、正岡子規となるわけで。
 これも釈迦に説法でしょうが、草城は昭和十年前後には西東三鬼らと共に新興俳句の旗手といわれました。ホトトギス破門後は無季俳句を容認する立場をとります。その代表作が『見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く』ですね。
 昭和二十四年に「青玄」をスタートさせましたが、昭和三十一年の没後「青玄」は伊丹三樹彦の継承となり、俳句現代派を目指したのです。「青玄」の終刊後、この「暁」と伊丹三樹彦の長女・啓子氏を代表とする「青群」に分裂しました。共に日野草城を師系としていますが少々色合いが違ってきたといわれていますね。
 草城は「俳句は東洋の真珠である」と言っていたそうです。香港のことじゃありません。素晴らしい宝石のようなもの、という意味でしょうね。わたくしはガラクタばかり量産している「報告のワコウ」ではありますが、つぼみ先生のいうところの温故知新を心掛け、抒情性の確立を目指したい、と思います。思いたい。思わねば、、、🙏

 著衣始(きそはじめ)
  古く三が日のうちに、衣を着初むる祝い。新しい冠や装束・衣装を着るもの。
   物堅く祇園に住むや著衣始       碧童

 正月松の内は紋のあるきものが正式でした。男性は紋服、女性は色留袖、訪問着、付下げなどで、未婚の娘は振袖を着用しました。生地は光沢のある綸子や緞子。縮緬なら、しぼの大きいもの。地紋は、やや大きめの本紋や紗綾形、立涌、霞、青海波、流水、大唐草など、いろいろな吉祥文様の中から選びます。色は新春にふさわしい明るい薄色が中心で、ピンク、ブルー、薄紫、クリーム、ベージュ、若草色など。グレーも明るいもの。模様は吉祥文様や御所解文様、有職文様などで、紋は、背に一つ縫い紋が多く、染め抜き紋や三つ紋、五つ紋は順に「格」が高くなるのです。

 この「格」というものですが、おおもとは古代の服制によります。飛鳥時代の冠位十二階から今日の皇室服制まで非常に複雑な決まりごとがあります。
 冠位十二階を定めた聖徳太子の時代の服制は定かではありません。近年明らかになりましたが、かつての一万円札で有名な伝「聖徳太子図像」は奈良時代の服制による武官のものです。実際の聖徳太子がどのような人物であったかはわかりません。この画像の服装も参考にはなりません。
 更に天武朝になりますと唐の影響を受けた服制がもたらされます。これは高松塚古墳壁画の図像に見ることができますが、当時の服制そのものは明確ではありません。官位制度は複雑になりましたが基本的には冠により区別され、例えば藤原鎌足が「大織冠」の位を贈られたなど、服よりも冠に重点が置かれたようです。
 奈良時代に入ると、唐の制度を受けて服制は刷新され、律令に基づく明確な法律「衣服令」(えぶくりょう)が定められ、次の養老令(養老二年)では礼服(らいぶく)・朝服(ちょうぶく)・制服(せいぶく)が定められています。
 礼服は重儀に用いられるもので、後には即位の大礼にのみ用いられ、明治天皇の父君孝明天皇の御即位までこれが用いられました。朝服は官吏の勤務服です。制服は無位無冠の庶民が公事に従事する際の服で朝服に似たものです。色は黄色で、この無位=黄色は明治まで引き継がれました。現在の制服(せいふく)の元となる言葉です。
 こうして律令の定めは形を変えながらも原則として明治まで生きていました。ただ、今日、神職以外で装束を着用するのは皇室関係と国技相撲関係者くらいなものでしょう。後者は行司が土俵で神事を行う際に用いるのですが、白狩衣(浄衣)に冠を付けるなど、いささか有職故実にそぐわないものです。
 一方、流石に皇室は戦前からの装束の伝統を受け継ぎ、天皇の黄櫨染御束帯や白色小葵文の御引直衣、皇太子の黄丹の袍、親王の黒色雲鶴文の袍など全て伝統を守ったものです。現在では束帯は即位・御成婚などの重儀にのみ着用され、通常の神事などでは衣冠が正式礼装とされています。

※引用文は山本健吉編【季寄せ】(昭和四十八年文藝春秋社刊)による

 

※本稿は阿夫利嶺俳句会の月刊誌「阿夫利嶺」に掲載されている連載を編集して掲載しております。※

閉 会

点 鐘

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